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COLUMN

2016/12/8

ジュリアーナ物語:第5回 ジュリアーナの思い出

前回まで、4回にわたってロベルタの創業者、ジュリアーナ・カメリーノの波乱に満ちた生涯を辿りました。最終回となる今回は、日本のマーケティングスタッフとしてジュリアーナと長年にわたり仕事をしたゼネラルマネージャーが、ジュリアーナの素顔を振り返ります。


初対面で感じた圧倒的なオーラ

ジュリアーナとの初対面は今から20年も前、1996年の2月のことでした。当時、ロベルタ ディ カメリーノは創業50周年の記念事業の真っ最中。日本のパートナーや雑誌の読者など100名近くをヴェネツィアに招待しており、私は入社後3カ月でいきなりイタリア出張となったのでした。


当時のオフィスは14世紀のパラッツォ(宮殿)でした。豪華な壁画やレリーフで飾られた荘厳な雰囲気で、入社したての私はとても感動したものです。ジュリアーナはスカーフを何枚もつなぎ合わせた大きなフラッグを建物の前に掲げ、私たちを歓待してくれました。

とはいえ、そのときジュリアーナは雲の上の人。緊張しながら挨拶するのが精一杯。背が高いジュリアーナから、ものすごいオーラを感じたのをよく覚えています。彼女は紺のスーツがお気に入りで、差し色として真っ赤なストールを羽織って赤い口紅をつけ、真珠のアクセサリーをつけるのが定番スタイルでした。

そのときのパーティはカジュアルな立食形式でしたが、オフィスに何人ものゴンドリエーレ(ゴンドラ漕ぎ)が来て、一緒にカンツォーネを唄いました。イタリア人の客人のもてなし方に触れたのもとても良い経験でした。以降、半年ごとにヴェネツィアに通い、ジュリアーナと新製品のデザインに関するミーティングをすることになります。

最後まで破らなかったアポの約束


さて、この半年に1度のミーティングは、日本でのライセンス管理やマーケティングを手がけるロベルタ ディ カメリーノ ファーイースト社とジュリアーナをはじめとするイタリアロベルタ本社スタッフとの間で40年以上も続けられています。

ミーティングが終わると、半年後の日程を決めて帰国するのですが、彼女はその約束を一度たりとも破ったことはありませんでした。ジュリアーナは日程の変更も、体調不良などによる欠席もせず、おそらく100回は超えていたであろう約束をすべて守りきりました。そんなジュリアーナに敬意を表し、私も一度決めたアポイントメントはできる限り変更しないことを心がけています。

仕事への厳しい姿勢

ジュリアーナは仕事には大変厳しい人でした。特に商品デザインのミーティングでは烈火のごとく怒り出すこともめずらしくなく、誰もが緊張しました。ヴェネツィアのオフィスは3月にいくと底冷えがするのですが、ミーティングの参加者は皆、真っ赤な顔をしていたのを覚えています。

中でも彼女が大嫌いだったのは、他ブランドのコピーのような企画です。「トレンドだから」という言い訳は一切通りませんでした。「真似をされても、絶対に真似をするな」というのが彼女のポリシーでした。ブランドの立ち上げ後にコピー品が出回って悩み、ココ・シャネルに「真似されるようになってこそ一流」と励まされた体験があるからかもしれません。


一方、晩年は孫娘(上の写真の右側)もジュリアーナと共にデザインを監修しており、その世代の言葉にはよく耳を傾けていました。ただ孫娘が日本からの商品企画を見て「これ嫌い」と言うと「ダメだしするだけなら誰でもできる。必ず代案を出せ」と諭していました。これも私の心に残る彼女の言葉のひとつです。

イタリア人らしいな、と思うのは、瞬間湯沸かし器のように怒りが爆発している最中でも、ディナーの時間になると怒っている当の相手を食事に誘い、何事もなかったかのように食事を取ること。そしてまた翌朝から怒り出す、ということもありました。

そんな厳しい彼女ですが、いい仕事に対しては、これでもかというくらい褒めてくれました。私の担当分野である広告やPRは専門外だからか、一度も怒られたことがありません。彼女に褒められると、本当に嬉しかったものです。

日本が大好き

ジュリアーナは、1、2年ごとに来日していました。2年ごとにファッションショーや展示会の企画をしていましたが、それは彼女が日本が大好きだったからです。

彼女は天ぷらが大好物で、中でもレンコンの天ぷらが大好きでした。彼女の来日時には日本のパートナーが必ずお座敷天ぷらに招待するのですが、そのメニューには必ずレンコンを入れるという暗黙のルールがあったくらいです。私も何度か、出張の際に日本からレンコンを運んだことがあります。

そしてジュリアーナはものすごい大食漢でした。私もたくさん食べられる方ですが、それでも彼女の半分くらいしか食べられませんでした。

ときにはお酒を飲みながら


ジュリアーナはお酒も好きでした。赤ワイン、オールド・ファッションド(ウイスキーベースのカクテル)、そしてウイスキーをストレートでもよく飲んでいました。

彼女は「食」をおろそかにすることは許さなかったので、どんなに忙しいコレクション時期でも、ランチもディナーも必ず一緒に食べました。ランチでも赤ワインを勧められるので、「仕事中だから」と遠慮すると「少しのアルコールは胃を活性化して食事を美味しくするんだから飲みなさい。」と言われたのを覚えています。

夜中までファッションショーのリハーサルをしているときなどは、少量のウイスキーをくいっと飲んでいました。ショーの演出に集中しすぎて貴重品を置き忘れるようなお茶目な一面もあったので、そんなときは必ず大事なクロコのバッグを私に持たせていました。

1年の4分の1は船上で


ジュリアーナはヴェネツィアの自宅以外に、亡命生活を送り最初のバッグを売ったスイスのルガーノにも別邸を持っていました。1年のうち6カ月はルガーノで過ごし、3カ月はGiada(ジャーダ)号という船に乗って洋上でデザインに打ち込み、残りをヴェネツィアで過ごしていました。

Giada号はクロアチア軍払い下げのクルーザーで、まだインターネットが無い時代から衛星FAXを使って仕事の連絡をしていました。彼女は意外と機械には強く、PCも使いこなし、携帯電話も3台所有していました。最もデザインは手書きでしたが。

海が大好きで、海からデザインのインスピレーションを得ることも多かったようです。また世界的な貝のコレクターとして有名で、2万点の貝のコレクションはヴェネツィアの海洋博物館に寄贈され、展示されています。

嫌いだったもの

ジュリアーナにも嫌いなものがありました。それは、網タイツ、アンクレット、そしてネイル(マニキュア)。社交界にデビューした本物のレディだった彼女としては、淑女らしくない格好は許せなかったのでしょう。一度ネイルをしたままイタリアに行ってしまい、ジュリアーナに見つからないようグーをして隠したこともありました。結局バレてしまいましたが。

最後のおみやげ


私たちがミーティングのためにイタリアに行くと、必ず帰りにおみやげをくれました。ロベルタのバッグや財布やポーチもありましたが、スイスのチョコレートを贈るのも好きでした。「ほんの気持ちよ。ミーティングありがとう」といって、渡してくれました。パートナーにも、取材のプレスの方にも、必ず全員に。

最後に私が彼女にもらったのは、キラキラスワロフスキーが全面に貼られたボールペン。このボールペンだけ変わり種だったので、きっとチョコレートを用意するのを忘れて、手元にあった可愛いものをくれたのではないかと思っています。最後の最後に、まるで自分のおばあちゃんのような、そんな気持ちになりました。このボールペンは、今もデスクの引き出しに入れ、ときどき眺めています。

そういえば、このコラムをアップした本日12月8日は偶然にもジュリアーナの誕生日。彼女のことを思い出しながら「Auguri!(イタリア語でおめでとう)」と言ってあげたいと思います。


美しいものが大好きで、決して妥協しなかったジュリアーナ。流行を追いかけることを好まず、自分の信じる価値観を貫き通した彼女の美意識は、現在もロベルタ ディ カメリーノのすべての製品に受け継がれています。

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