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COLUMN

2016/11/22

ジュリアーナ物語:第4回 世界へ広がるジュリアーナの想像力

「ロベルタ ディ カメリーノ」の創業者であるジュリアーナ・カメリーノの人生を振り返る本連載。第4回目となる今回は、ニーマン・マーカス賞を受賞し、世界的デザイナーとなったジュリアーナにスポットを当てます


アメリカへの旅立ち

1956年のある朝、ニーマン・マーカス賞受賞の電話を受けてからというもの、すべてが慌ただしく過ぎていきました。まずパリまで車を飛ばし、ディオールが仕立ててくれたドレスを受け取ります。ドレスは本当に美しものでした。そして大西洋を越え、ニューヨークへ。

アメリカでの反響は、予想をはるかに超えたものでした。各メディアがマーカス賞について大きく取り上げていたおかげで、ジュリアーナはニューヨークに着くなり、大勢のジャーナリストに囲まれることになりました。カメラマンたちは、まるで映画のように、大きなカメラとフラッシュを持ち、頭にちょこんと帽子をのせていました。

ニューヨークでの宿泊は、シェリー・ネザーランド。建物が丸ごとひとつ、予約されていました。ニューヨークで、ジュリアーナはいろいろな人々に会います。有名な美容ブランドを経営するエリザベス・アーデンや、ヘレナ・ルビンスタインもその一部。ヴェネツィアでジュリアーナが仕事に打ち込む間、それを何千キロも離れたところから注目している人がいたなんて、想像もできなかったことでした。

グレース・ケリーとの出会い

夢のような数日間を過ごした後、いよいよ授賞式の会場がある、ダラスへ出発です。空港へ向かうとき、ジュリアーナは、ともにダラスへ向かう写真家セシル・ビートンとホールで待ち合わせました。本物の英国貴族であるセシルは、まるでシャーロック・ホームズのような出で立ちで現れました。ジュリアーナの目は、セシルとともに現れた美しい娘のバッグに吸い寄せされます。それは、最もクラシカルな、最高級の「バゴンギ」でした。

彼女は微笑みながら、歩み出ます。ジュリアーナはすぐに彼女が誰だか分かりました。「私はグレース・ケリーです。一緒に旅をさせていただきます」。

グレース・ケリーは、前年のニーマン・マーカス賞の受賞者で、ダラスでの授賞式に列席することになっていました。そしてこれが彼女の最後のプライベートな外出になりました。ダラスから戻ると、彼女は結婚してモナコ王妃となったからです。そしてグレース・ケリーは王妃となってからもロベルタのバッグを愛してくれました。


後にグレースケリーは意図せずロベルタにちょっとした騒動を引き起こします。それは1959年のローマへの公式訪問のときのこと。彼女は相変わらず美しく優雅で、カメラマンたちは競って彼女の写真を撮りました。そしてその写真は連日多くの雑誌の表紙を飾りました。そんな中の一誌「エウロペオ」誌の表紙には、ブルーのスーツ、グレーのミンクのストール、白い手袋とクロシュという装いの、すばらしいグレース王妃の写真が掲載されました。そしてその手には、ピントも校了も完璧な、燃え立つようなバゴンギが映っていたのです。このグレース王妃の写真によって、バゴンギは「王妃のバッグ」という呼称を授かりました。そしてその需要は一気に跳ね上がったのです。

話をダラスに戻しましょう。飛行機がダラス空港に到着してタラップを降りると、そこには大勢のカメラマンが待ち受け、フラッシュを焚いて写真を撮っていました。そしてタラップの下からは、聞き慣れた歌声が。フラッシュの合間を縫って目をこらすと、8人の顔なじみのゴンドラ漕ぎがヴェネツィアの歌を歌っているではありませんか。スタンレー・マーカスは、ジュリアーナのために8人をはるばるヴェネツィアから呼び寄せていたのです。驚きはまだ続きます。授賞式の会場にはヴェネツィアのサン・マルコ広場が再現されていました。ジュリアーナひとりのために。夢のような授賞式を終えると、ジュリアーナは目を閉じてこれまでの仕事を振り返りました。すべては13年前、ジュリアーナが自分のバッグを売った日からはじまったことでした。


ジュリアーナの想像力は世界中へ

ニーマン・マーカス賞は、ジュリアーナの人生を変えました。イタリアで、そして海外で、ロベルタは大きな躍進を遂げます。毎日のように、新しい話がジュリアーナの元に持ち込まれました。ソビエトから来た婦人は、金額に頓着しない顧客のために最高級の品々だけをそろえた店をチューリッヒに開きたいというアイデアを持ってきました。そのためにロベルタの最高級品がほしい、と。その店は大当たりし、すぐにサン・モリッツとジュネーブにも支店ができました。時が経つにつれ、さらに多くの提案が舞い込んできて、ジュリアーナはブリュッセル、ウィーン、ザルツブルグ、モナコなど、各地を飛び回ります。

ジュリアーナは、ロベルタのコレクションを発表するショーにも新たなアイデアを持ち込みました。品々を手に持ったりマネキンに着せたりするお決まりのプレゼンテーションではなく、音楽やサプライズがある、ひとつのショーにしよう。こうして前代未聞のファッションショーが企画されます。

会場は、ヴェネツィア近くの小島ポルヴェリエーラ。ここへ、マルコ・ポーロが商人たちを連れてやってくるというのがジュリアーナのアイデアでした。商人たちは、ジュリアーナがこれまでに作ったロベルタの全作品、バッグ、洋服、旅行カバンなどすべてを携えて現れます。モデルたちは、役の衣装を着た踊り子たち。ショーにはサーカス団も呼び、象やらくだ、曲芸師が華を添えました。世界中から集まった数百名の招待客、ファッションジャーナリストやカメラマン、スタイリスト、バイヤーたちは、マルコ・ポーロの凱旋祝賀会を再現したディナーテーブルで夕食をとりながら、仮面の踊り子や楽団をのせたゴンドラが次々と通り過ぎていくのを眺めました。こうしてジュリアーナのチャレンジは、世界中で大きな反響を得ただけでなく、ファッションショーに新しいスタイルをもたらしました。


ジュリアーナはこうして60年代を全速力で駆け抜けました。70年代になると、ロベルタ ディ カメリーノはさらに世界各地へと広がります。75年にはニューヨーク5番街に店舗をオープン。そして日本でもジュリアーナのバッグが店に並ぶようになりました。

ニューヨークのあるパーティーでのこと。多くの出席者の中にいたサルバトール・ダリが、ジュリアーナの手を取って言いました。「ファッションの中にアートを見たのははじめてです」。もちろん、ジュリアーナにとってこの上ない賛辞でした。


生涯を通じて世界を飛び回り、精力的に作品を生み出し続けたジュリアーナ。その最期もまた彼女らしいものでした。2010年の春、愛船ジャーダ号での航海中、ジュリアーナは大好きなオールドファッション(ウイスキーベースのカクテル)を飲みながら眠るように意識を失います。船はすぐに帰港し、彼女は病院へと運ばれました。そして生まれ故郷ヴェネツィアで、愛する息子ウーゴや娘のロベルタ、孫たちに囲まれ、静かに息を引き取りました。

すべてのはじまりは、1943年に売れた手づくりのバッグ。それ以来、ジュリアーナの豊かな想像力から生み出された数々の作品は、バッグをファッションアイテムへと変え、ファッションに新たな風を吹き込んできました。今日でも、ロベルタ ディ カメリーノのすべての製品には、いくつもの困難を乗り越えてきたジュリアーナの志と、決して揺らぐことのない美意識が宿っています。

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